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ニンナ・ナンナはこのようにしてできました。 |
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ニンナ・ナンナ遠景 1998年11月 | ||
ニンナ・ナンナとはイタリア語で「子守歌」[ねんねんころり」という意味です。お店の名前をつけるのが一番大変でした。 レストランは金曜、土曜、日曜の昼間だけです。毎日あけていても、お客様はこんな遠くまでめったに来てくれないからです。だから、電話してくれればいつでもどんな時間でも大丈夫なのですけどね。 (本当は、農業と農産物の加工(ハーブ加工品、ジャム、クッキー)でとっても忙しいのです。) |
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開店のときアフリカン太鼓をたたいてくれた客人 | ||
ニンナ・ナンナのモットーは、「こころとからだにいいものばかり」です。子供たちを育ててきたときと同じ気持ちです。 98年11月の開店のとき、久しぶりに子供五人全員がそろいました。左から、風、光、太陽、君、月といいます。というのは嘘です。でも、本当の名前もこんなです。 |
東京のサラリーマン家庭の五人の子の母が語る。。。 私はいつのまにか、手作りできるものは何でも手作りするようになりました。子育てを始めたのはとても若かったので、お金が少しもなかったからです。 一番上の子(太陽)が砂場で遊んでいて、おもちゃのクッキー型で砂のクッキーができたとき、まわりの子がそれに触ろうとすると、「まだ熱いから触っちゃだめよ」と太陽が言っている光景をよく思い出します。 太陽はできあがったクッキーをすぐに食べたいのに、私からいつもそう言われていたのでした。 特に食べ物は、子育てをしながら、どうせ手作りするのなら安全な素材を使いたい、子供には安全なものを食べさせたいと思っていました。 生協に加入しましたし、自然食品店にあるものはそこから購入するようになりました。今では東京のあちこちに自然食品店ができ、無農薬で有機栽培の米・野 菜・加工品がスーパーでも売っていますが、そのころは数が少なく、子供たちにリュックを背負わせ、電車に乗って買い出しに出かけたりしていました。 三番目の子供がお腹にいるとき、私はあまりお腹が目立たない体つきなものですから、米とか大根の重そうなリュックを上の二人の子供に背負わせて母親は軽いものしか持っていない、と中年女性のひんしゅくを買った、なんていうことを思い出します。。。 有吉佐和子の「複合汚染」が朝日新聞に連載され、環境汚染がほとんど初めて話題になった時代でした。もうあれから三十年近くたつのに、未だにこの問題が改善されず、逆に環境は悪くなる一方であるとは一体どういうことなのでしょう。。。 |
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五人の子の母が続けて語る。。。 野菜までも自分たちで作るようになりました。 若くなくなっていくとともに、少し余裕が生まれ、私たちは千葉県の外房にわずかばかりの畑を持つようになりました。夫の会社勤めの傍ら、週末を待ちわびるようにして、その頃は四人に増えていた子供たちと出かけていました。 |
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千葉の家 | ||
都会の人が自給農園を持つことはほとんど趣味ですが、私たちには何となく予感があったのだと思います。地元のお百姓さんがやって来て、ここには何でもある、と言ってくれるほど、米以外、考えられるものは何でも作りました。 朝早く起きたら、クローバのなかでうさぎが何匹も跳ね回っていた光景が忘れられません。その頃幼稚園児だった三番目の子の君が、その千葉の家から暗く なって帰るとき、さっきまで獲っていた蛍がまだ舞っているのを見て、「ぼくたちって恵まれているんだね」と言ったことも忘れられません。 畑で初めて小さいじゃがいもがころころできたとき、子供たちは「売ってるのと同じだね」と言って大喜びました。今から思うと肥料不足で、土も悪く日もあまり当たらない畑でした。それでも、有機野菜のとれたては、初めて食べるおいしさでした。 ハーブというのはそこらの草と同じであったりしますから、わりとよく育ちました。たとえば、ジャーマンカモミールは毎年こぼれ種で出て来て、春に花盛りとなるので、子供たち一緒に果てしなく摘んだりしました。 地元のお百姓さんがまたまたやって来て、ここには珍しい草が何十種類もあると言い、種から育てた黄色の小粒のいちごを珍しがって、「もらっていくよ」と 言って、ひと株をさらに分けて持っていきました。今頃あのいちごは千葉のあの地で増えているでしょうか。。。 このような千葉での生活を思い出しますと、まるで青春時代の思い出と同じように、なつかしさで胸がいっぱいになります。しかし千葉での充実した暮らしが 週末だけであったのに、この地に移住してきて、それが毎日の生活になったのですから、こんなに幸せなことはありません。。。 |
1991年12月、私たちは一家で九州のこの地へ移住して来ました。
北海道でもスペインでもどこでもよかったのですが、標高が高くて、九州の夏であっても過ごしやすいこの地がとても好きです。 |
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念願の米作りも始めました。
最初の年は手で植えて、腰の痛みと、泥の中での単純作業に音を上げました。「こなぎ」という種で増える草と、「おもだか」という根で増える草に往生しています。部落の人が心配してくれて、こっそり見に行ったりしていた、ということです。 「麦にならんでよかたな」と言われました。近頃は草の多さに呆れて話題にもされません。。。 |
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田の草(これはオモダカ) | ||
米の収量は当然少ないのです。大部分、東京に送っています。北海道からいつも注文してくださる方もいます。
購入する側として東京の生活で経験したことなのですが、消費者は顔の見える生産者を求めていて、無農薬有機栽培であるなら、少しぐらい高くても喜んでく れます。生産者は有機栽培で収量が落ちても価格で補えます。健康と環境を重視するならば、農業の将来はこのような方向に進むことを願っています。。。 |
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掛干しした米の脱穀作業 | ||
たくさんのラベンダーを植えました。毎年六月下旬から七月中旬にかけて花盛りとなります。フレッシュラベンダーの香りは乾燥品とは異なり、信じられないほど爽やかです。 色々な果樹も植えました。ブルーベリー、山ぶどう、梅、キウィフルーツは無農薬でも大丈夫なので、私たちにぴったりです。プルーンも60本以上植えたのですが、長い梅雨と虫害が大変です。 |
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ニンナ・ナンナを始める前の六年間、私たちは自然とともにある喜びに浸り、一日中、一年中農のある暮らしに満喫していました。 農作物だけでなく、すべてが「自給自足」の生活。急ぎのとき以外、めったに町にでかけて行かなくなった。 しかし、これでいいのだろうか。。。 |
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りんご(紅玉)とあんずと洋梨 |
実は、このハーブとパスタ料理を始める前の計画段階で、ほかに様々な企画があったのでした。 『お客さんの来ない本屋さんプロジェクト』 暗い通路の両側に本だけがうずたかく積んであるのです。 『誰も乗らないジェットコースタープロジェクト』 柏原の寒空に、ジェットコースターだけが虚しく動きまわっている。 『誰もいないコンサートホールプロジェクト』 誰もいない客席と、誰もいない舞台。スポットライトだけがその舞台を照らしている。。。 といったような、荻町にあるといいなと思い、だけど絶対に経営が成り立たないものばかりでした。そしてそのなかに、 『注文の少ない料理店』 というのがあったのでした。これは、お客の注文がないので、作った料理をいつも自分たちで食べている料理店です。。。 荻町はトマトの大産地、トマトとハーブと言えばパスタ料理。 若い頃からの、安全な食へのこだわり。手作りできるものは手作りする、という私たちの信条。私たちの食べたいもの、こころとからだにいいものばかりを、ほかの人たちにも食べてもらいたい。 これらを全部ひっくるめて、ニンナ・ナンナは生まれました。 もちろんお客さまの注文がなかったときは、自分とこで食べてしまっています。 |
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お客様がいないときは、料理の仕込みをしたり、ハーブやそのほかの加工をしたり、ジャム作りの下準備をしたり、パンやクッキーやケーキを作ったりしています。 国産小麦粉・天然酵母・よつ葉バター・きび砂糖・平飼い有精卵・その他できるだけ有機栽培の材料を使って、生地から手作りしています。 |
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みんなでりんごの皮むき | ||
そんなとき、大分市内のような遠くから、どなたかの口コミでお客様が訪ねて来てくださったりします。一時間以上も迷って来た、なんてにこにこして言われると、大変恐縮してしまいます。 | ||
雪に埋もれたニンナ・ナンナ |
ニンナ・ナンナのこれから。
ブルーベリー、山ぶどう、梅、キウィフルーツ、その他自家栽培農産物の加工品作り。 荻町のトマトと、バジル、オレガノといったハーブを使ったパスタソース。 |
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燻製作りのような、ちょっとやってみたいけれどもなかなかできない遊びの場、それから、グリーンツーリズム、イギリスのB&Bのような気ままな宿泊手段の提供。。。 ニンナ・ナンナのような施設は、次々と発展していくテーマの源泉のようです |
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自家製ベーコンとソーセージ | ||
そしてそのほかに、ニンナ・ナンナでなくてはできないこと、ニンナ・ナンナの存在意義として、思いますこと。 ニンナ・ナンナにはお客様のほかにたくさんの人が訪ねて来てくれました。 農業の新しいやり方を模索している人、有機農業を実践している夫婦、新たに就農して有機農業に取り組もうとしている人、女性だけで自然食品店を経営している人、その自然食品店に有機農産物を卸している人、、、 このような人たちにニンナ・ナンナを開放してネットワーク作りを進め、一個人・一家族ではなかなか難しい有機農業での生計を成り立たせていくこと。。。 |
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1999年の忘年会。 みんなありがとう。 |